精神科救急の現場から
登場人物は
すべて
架空の人物です。
●逃げなければという思いに支配され
36歳の高橋聡さんは10年間家に引きこもったままだった。母親は聡さんが16歳のときに統合失調症を発症、家の中は古新聞等がうずたかく積まれ、まるでゴミ屋敷である。資産家で大きな平屋建ての家に住んでいるのだが、近所との接触が無く、むしろ「隣の人が監視している」といった妄想から、二人で隣家に「監視しないでください」と言いに行ったりしていた。

聡さんはこれではいけないと考え、働く決意をしてジョブカフェに仕事を探しに行ったものの、面接では落ち着かずうまく話せなかった。その後、身なりをきちんとしようと考え散髪しに行ったのだが、散髪の途中で「お前のことを知っているぞ。そんなことしたって無駄だ」という声が聞こえてきた。理容師さんは無言でてきぱきと髪の毛を切ってくいれている。他のお客さんも新聞や雑誌を読んでおり、聡さんに話しかけた人はいない。それでも声が聞こえてくるのである。“逃げなければ”そんな思いに支配されるように散髪屋をあとにした。

家に帰り、母に相談、二人で逃げることになり警察に助けを求めるために電話、駆けつけたパトカーを見て待ちきれず向かって行って、止まっているパトカーにぶつかったりした。
「お二人を視認したので近づこうと思ったところ、走ってきてぶつかったのでびっくりしました」と後に警察官は語っている。
警察署についても「言動がおかしいなと感じたもののそれ以外にこれといって問題は感じませんでした。自殺や他人を傷つけるようにも思えませんでしたので、警察としてはそれ以上関わりようがない」ので弟が呼ばれ、連れて帰ることとなった。

弟は34歳で独立しており、妻子がいる。弟も「もし、あのまま家にいたら同じようになっていたと思います。18歳のときに家にいては良くないと思って、家を出て独立し、妻にめぐりあえたので普通の生活ができるのだと思います」と話している。妻は精神障害に理解があり、多少の知識もあるようだ。身近に理解し、支えてくれる人がいれば、発症することがないのかも知れない。

聡さんのことに話しを戻すと、この数日後、体の不調を訴え内科の病院に入院した。病院側が聡さんの状態がおかしいと気づいたはずなのだが、これといった対応をせず、弟に連絡し退院を促した。
●母親は10年以上治療が中断
病院に聡さんとお母さん、弟さんの3人が来た。
聡さんは、「だまされている」
「監視されているんだ助けてくれ!」
と叫び、何かから逃げ回っている。あきらかに幻聴と妄想によるものだ。看護師は二人で聡さんが診察室の扉を開けようとするのを押さえるだけで精一杯で、応援を呼んだ。急激に症状が悪化しているのは明らかだった。このため弟さんの了解を得て医療保護入院となった。

お母さんはこの間、医師が聡さんの普段の様子を尋ねても何も答えず押し黙っている。時折きょろきょろと周りを見回し、何やらぶつぶつ言いながらうんうんとうなずいている。様子が変である。弟さんに聞いてみると、近くの精神科病院に入院していたことがあるとのことで、その病院に連絡をとってみた。10年以上治療が中断しているため、その病院にも詳しいことはすぐにはわからないとのことであったが「治療はする」とのことだったので、その病院で治療を受けていただくことにした。当院に入院して母と子が一緒になることにも問題があったし、後送できる患者さんはできるだけ後送し、救急で来る患者さんのためにベッドを空けておかなくてはならないという理由もあった。

聡さんは、入院後の治療経過も良く、発症後まもないこともあって、薬の効きも良い。治療が進み入院2ヶ月を過ぎた頃には退院の目処もたってきた。問題は住まいである。母親と同居ではまた、同じ状態になる。母親も治療が必要だが、こちらは20年前に発症し、九州の病院で治療を受けた後、こちらの病院に転院したようだ。その後、治療が中断しており、治すのは一筋縄ではいきそうにない。そこで聡さんの住まいを別に探すことにした。自分で生活を立て直すことで、弟さんと同じように普通に生活できるようになるはずだ。

精神保健福祉士の並河愛理さんに聡さんの件をお願いした。退院後、すぐに自活するには多少不安があるので、できれば生活訓練施設かグループホームで生活した後に、自活してはどうかと提案した。並河さんは聡さんと何度か話し合い、病院近くのアパートで暮らし、訪問看護を受けることにしたらしい。そうすれば夜中に急に具合が悪くなってもフォローできるので安心なこと。昼間は病院のデイケアに通い、徐々に体と心を社会復帰が可能な状態に近づけて行くことなどを決めた。

入院から3ヶ月目、聡さんは無事に退院し、アパートで一人暮らしをはじめた。デイケアにはほぼ毎日通っている。夜中に病院に「眠れない」と電話してきたこともあったようだが、そのときは来院には至らず何とか朝までもったようだ。訪問看護ステーションの柳田靖子看護師に聞くと「生活には徐々に慣れてきています。たまに弟さんも来られるようです」とのことである。病院だけでなく、あの弟さんのフォローがあるのなら社会復帰して働くことも大丈夫だろうと思い、安心した。
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