精神科救急の現場から
登場人物は
すべて
架空の人物です。
●空港で暴れて
午後3時すぎ、遅くなった午前中の外来診療が終わり、昼食を摂った杉岡医師は外来看護師の赤坂有珠に話しかけた。

「赤坂さんは今年、入ったんだよね。なぜこの病院を選んだの?」
「看護学校の実習時にここに来たんです、その時に心の病とそれに取り組むスタッフの方々の頑張りを目にして、私もと思ったんです」
「他の科は考えなかったの?」
「ここへ実習に来る前は小児科も良いなと考えていたんですけどね。実習に来てからは精神科だけを目指しました」
「家の人は何も言わなかった?」
「最初は精神科なんてどんな人が来るかわからないんだからやめときなさいよっていわれましたけど、私の決意がわかると何も言わなくなりました」
「そうなんだ。でどうだった精神科に入って?」
「そうですね、1年生の私が言うのは変かももしれませんけど私たちのかかわり方次第で患者さんが変わってくるんですよね。もちろん先生やOT、PSWの方々の力もあるんですが、一般科に比べて看護師のかかわり方で入院患者さんの病状が変わってくるように思うんですよ。ベテランの鈴木さんなんかみていると、そりゃすごいなあって思いますね」
「たしかにベテランの力というのはすごいね。その点では医者もいっしょだけどね。救急病棟ではスタッフの力量が明らかに早期退院に結びついているような気がするね」
「やっぱりそうなんですよね」

「先生、大学病院から電話でアメリカ人の患者さんをとってくれないかって言ってきてるんですけど」事務の納谷辰則が伝えてきた。
「電話、かわりますか」
「ああ、そうしよう」

電話が終わって約50分後、大学病院のPSWと看護師に付き添われてアメリカ人の男性がやってきた。

滞日中に調子が悪くなって帰国しようとしたのだけれど、空港でひっかかり、空港の診療所から同系列の大学病院へ救急車で運ばれたのだった。ところが、大学病院では入院ベッドが満床で、さらに転院してきたのである。

杉岡医師は米国に留学していたこともあり、英語も話せる。もっとも留学していたのは20年近く前だから、今もペラペラ話せるのかというと少しだけ?がつくようだ。
●空港で混乱した状態で暴れ
来日していたフランクは、ウオール街の金融関係の会社に勤務するやり手のディーラーだった。1日12時間働くような仕事人間だった。自尊心も強く自分は間違いを犯さないと信じている部分もあった。そのフランクが仕事上でささいなミスを犯した。ミスそのものはささいなもので問題にはならなかったのだが、本人はそのことが原因で落ち込んでいた。長期間にわたる過激な労働からくる疲れもあり、落ち込みようは周りから見て気の毒なくらいであった。その様子を友人が心配し「仕事を休んで、気分転換しよう」ということで、思い切って会社を退職。ディーラーとしての実力には自信があったので、再就職の不安はまったくなかったようである。

7月~8月までカナダのウィスラーに滞在、その時知り合った日本人女性の佐藤恵理さんと意気投合し、後日、佐藤さんを追いかけて来日していた。幸い、経済的には十分な貯えがあったようで日本では長期滞在も考えていたようだったし、佐藤さんとの成り行きによっては日本で米国系金融機関に勤務するということも考えていたようだった。

といころが、言葉が通じないうえに生活習慣等もまったく異なることからくる不安でイライラするようになり、佐藤さんに大声であたるようなこともあったらしい。そのような中で秋頃から経済環境が大きく変化、世界不況に突入すると「日本で働くには言葉の壁があるし、帰国しても職が得られなくなるのでは」といった不安が大きくなり、言動が少しおかしくなってきた。
ただイライラしているだけではなさそうだと感じた佐藤さんが「観光ビザで入国しているし、一度、帰った方が良いのでは」と勧め、帰国のために空港に出向いたところだった。

空港でも、同行した佐藤さんに暴言を吐いたり、落ち着かない様子でせわしなくうろうろしていた。佐藤さんは食事でもすれば少しは落ち着くのかなと思い「お寿司でも食べようよ」と誘うと素直についてきたので、空港内の鮨屋に入った。
ところが、店内で大声を出したかと思うと、おしぼりをカウンター越しに板前さんに投げつけたりしたため、結局何も食べずに外へ出ることとなった。店には佐藤さんがお詫びし、なんとかその場を切り抜けたものの、『これでは一人での帰国は無理かも』という思いも出て来た。

その後、落ち着いてきたようだったのでとりあえず搭乗手続きを進めようとしたところ、騒ぎ出し、「Kill You!!」と叫んだかと思うと空港職員に向かって自分の荷物を投げつけた。
「フランク! やめて!」と叫んでみても振り向きもしない。さらに近くにある他人の荷物にも手を出そうとしたところで、ガードマンによってとり押さえられた。
●近々帰国することに
直後、駆けつけた警察官に引き渡され空港内の派出所に連れて行かれたものの、しばらくすると落ち着いて来たことと、佐藤さんがいっしょで身元引き受けに同意したため保護とはならなかった。その後、佐藤さんとともに空港内の診療所へ行き、診察後「本日の搭乗は無理です。治療を受けてから、帰国するように」言われ大学病院に運ばれた。

大学病院で診察を受けたところ、急性一過性精神病性障害と診断された。幻覚妄想状態にあり、自傷他害の恐れもあるため入院が必要だがあいにく大学病院の精神科病棟は満床だったため、杉岡医師のもとに連絡が入ったのである。

杉岡医師の診察、治療の後、応急入院となり隔離室に入院。薬が効いてきて少し落ち着いてきた。翌日、病棟看護師長の鈴木には話の内容はわからないものの行動にもまとまりがでてきたように感じていた。そのことを昼食時に外来の赤坂有珠に話した。

二日後には閉鎖病棟の個室に移動。昼間はデイルームで落ち着いた様子で過ごしていた。もっとも病気だという自覚があまり無いようで、薬も看護師が促さないと飲まないということも多かった。三日目には健康保険が無いため、自費で入院を続けるのかどうか確認したところ、
『自分でもまだ混乱していると思うので、もう少し入院していたい』ということで、任意入院とし様子を見る事となった。

杉岡医師は言葉や生活習慣の問題もあるのでできるだけ早く帰国させて治療を受けさせたいと考えていたのだが、一人で長時間飛行機に乗せることにためらいがあった。国内での転院なら看護師とPSWに目的地までの同行をお願いするのだがニューヨークまでとなるとさすがに経費が出ない。もっとも有珠を筆頭に「先生、私ニューヨークまで付き添いますよ」という希望者は多いのだが、もし経費が出るとなると人選でもめそうで経費が出ないことにある意味“感謝”していた。

「もう少し治療を続けてからどうするか結論を出すよ」と杉岡医師が言うと有珠が「私、行きたい」と返してきた。
「佐藤さんに相談してどうするか決めるよ。また、佐藤さん、またカナダに行くと言ってたから何とかなるんじゃないかな」
「な~んだ、つまんない」
メーン州に住んでいるフランクのご両親に連絡が取れており、できたら佐藤さんとともに帰国させてほしいと要望されていたし、2週間後には佐藤さんも旅立つ予定だと聞いていた。
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